今週もひどいドラゴンボールZ劇場版 龍拳爆発!!悟空がやらねば誰がやる

主人公がトランクス

20年前から散々言われているのだろうが、Z最終作であるこの映画はトランクスが主人公だった。ドラゴンボールという作品の集大成において、トランクスが主役に抜擢されることに多少の違和感はある。未来のトランクスの剣という、自分にとっては割とどうでもいい要素をここに来て掘り下げるのも不思議だった。18号との戦いで欠けて以来何となく使われなくなった剣である。鳥山御大としても「あ、そこ掘るんだ」と意外に思われたかも知れない。案外御大の発案かも知れないから、これ以上薮をつつくのはやめておく。

誰の発案かはともかく、本編は本来の歴史とは似ても似つかぬ歴史を歩んでいる。同年代のトランクスを見比べれば一目瞭然だろう。本来の歴史とは、主要な戦士が全員人造人間に殺され、トランクスまでもがセルに殺されたがその代償に平和になったというクソミソな世界である。そのトランクスが持っていた剣と、今回トランクスがタピオンから手渡された剣が同一の物だというのは考えにくい。タピオンから剣を受け取る、というシチュエーションはヒルデガーンの復活なしにはあり得ないはずだが、未来の世界においてこの映画と同じようなことが起こったとは到底思えない。あまりにも歴史が違いすぎる。だから「あの剣はタピオンの物だったんだよ!」と言われても今ひとつピンと来ない。

魔人

今回の敵は幻魔人ヒルデガーン。原作に魔族が出れば映画の敵も魔族になる。サイヤ人が出ればサイヤ人ナメック星人フリーザ一族、超サイヤ人……と原作を踏襲することの多かった映画である。中世風ファンタジーに逆行した原作を踏襲して、映画でも勇者、剣、魔人だというファンタジーに回帰するのは当然の流れかも知れないが、それにしても魔人ブウ編と共通の要素が多いように思う。

また界王神と敵対関係にあるほどの邪悪な魔術師が生み出した魔人ブウに対して、今回は一惑星の魔術師達が生み出した魔人に過ぎず、その魔人がブウに匹敵かそれ以上に強いというのも違和感がある。主人公が界王神から宇宙一といわれるほど強くなってしまうと、敵の強さに説得力を持たせる事自体難しい話ではある。原作の人造人間も、フリーザの次の敵としては説得力がなかった。ただ神と神は破壊神という別の概念を持ってきたし、次回作以降も恐らく別の宇宙という概念を使うことによって、何とか強さに説得力を持たせようと努力している。「魔人」というだけではパンチが弱い。

各人の活躍

悟飯は早々にヒルデガーンの性質の謎を解いて下半身を撃退し、ゴテンクスは合体した初期形態を倒している。ベジータは人々を庇って重傷を負い、悟空がとどめを刺している。悟飯以外は、それぞれの強さに見合った見せ場が用意されていた。各々ができることをやってくれるとやはり気持ちいい。
ベジータは「神と神」では悟空を超えたと無闇に持ち上げられていたが、今回は人々を庇ったという精神の変化がピックアップされ、戦いではそれほど活躍していない。一番目立っていないと言ってもいいだろう。だが事実、この時のベジータは戦いで役に立てる強さではない。これまでの頑固さもなく、面倒なベジータからいいベジータになっていた。散々聞いた「カンチガイスルナ タスケタワケジャナイ」もなくなり、「人の家を壊しやがって!」とすっかりマイホームパパと化していた。舅の稼ぎで建てた家だとは思うが。

唯一気になるのが悟飯だ。活躍はしているが、強さに応じているかというと疑問符が付く。神と神然り、悟空に「ここまで極められるものなのか」と評された事はなかったことにされているようだ。悟飯の強さを保持しつつ、倒すのを悟空に譲るという展開をうまくできなかったものだろうか。ヒルデガーンは煙化する厄介な性質を持っているから、必ずしも悟飯が強さで負けたとは言えないにせよ、反則的な強さを発揮する機会を与えられないのが不憫だ。なんかこう、「実体のない幻魔人には超サイヤ人の光のエネルギーでないとダメージを与えられない」とか、そういう悟飯だけをのけ者にするような設定があれば、納得できたかも知れない。それもご都合主義か。

バトル

後期映画のご多分に漏れず、退屈なワンサイドゲームがなく、元気玉も「パワーを分けてくれぇぇ!」もない。無策に挑んでただ敗れるわけでもなく、相手の性質を読み切って対策を立てた後に敵を倒すという、ストレスのない戦いだった。大型の怪物というパターンの敵も新鮮だった。

トランクスと勇者のドラマ部分が長く、バトル映画としては少々物足りない感はある。ストーリーについては、最初に触れた通り未来世界へのリンクは想像しにくく、ブルマのタイムマシンで1000年も前に戻れるのか、といったところも含め節々に違和感の残るものではあった。その二点を除けば特に無理がなく、よく纏まっているのではないかと思う。