今週もひどいドラゴンボールZ劇場版 燃えつきろ!!熱戦・烈戦・超激戦!!!

他の作品では特に印象に残らない日常パートだが、今回は息子のお受験のために面接へ行かされる悟空や、「翼を下さい」を熱唱するクリリンと面白い場面が多かった。スーツを着た悟空は、シュッとしているただのいい男だった。ベジータがシリアスをやっている最中にもクリリンが歌っていたのは面白かったが、完全なる日本の歌謡曲だけに、違和感も半端ではなかった。何故この選曲なのか。

サイヤ人の王子であるベジータに敵が接触し、悟空は界王星を経由して敵地に向かう、という話の構造は「神と神」に類似している。サイヤ人の王子という立場は、悟空や地球が目的ではない敵にとっては、便利な目標になるということだろう。界王も宇宙の危機を伝えるという役割で重宝している。

伝説の超サイヤ人

戦いになるまで25分以上かかっているが、退屈には感じなかった。日常パートが面白かったこともあるし、「伝説の超サイヤ人が現れた」という内容が興味を引くものだったからだろう。もっとも超サイヤ人自体が伝説なのであって、「超サイヤ人とは別に伝説の超サイヤ人がいる」というのは言葉のトリックだ。映画ではブロリーこそが真の伝説のサイヤ人なのだと言い張っているが、後のGTスタッフは「超サイヤ人4は伝説の超サイヤ人をイメージした」と言っている。そして最近になると、超サイヤ人ゴッドというものまで現れる始末。ゴッドが伝説の超サイヤ人と言われたかどうかは忘れたが、いずれにせよ「伝説の超サイヤ人」という切り口はもう十分だ。破壊と殺戮の権化という意味では、ブロリーにその称号を与えるべきだろう。

敵がサイヤ人ということもあって、悟空やベジータとの関係性が無理なく自然に組み込まれている。力を恐れたベジータ王はブロリー親子の処刑を試み、ブロリーの隣に寝かされていた悟空は、泣き声でブロリーにトラウマを植えつけていた。戦闘力が5000分の1の赤子に泣かされるブロリーもどうかと思うが、その体験があるがゆえに、悟空に対して異常なほど憎悪を抱く印象的なキャラクターになっている。思いついた人は偉い。サイヤ人として全く活動していない悟空と敵のサイヤ人に接点を持たせるにあたり、「隣のベッドにいた」という発想はなかなかできない。

またベジータフリーザが、生きているサイヤ人ブロリー親子を含めていなかった理由にも筋が通っている。公的には処刑された上、惑星ベジータは消え去っているのだから、生きているとは考えられない。「戦闘向きではなかったから」とかいう意味不明な理由で、存在を捏造されたベジータの弟とはえらい違いだ。

ベジータ

ベジータはプライドの高さゆえ非常に面倒くさいキャラクターだったが、今回は面倒臭いを通り越して道化となっていた。パラガスの嘘に踊らされ伝説の超サイヤ人ブロリーと捜し回った挙げ句、ブロリーは悟空を見て怒りの余りマッチョ化。「ベジータに部下扱いされる」ことより、「悟空が目の前にいる」ことの方が堪えられなかったということだ。眼中にないにも程がある。

悟空しか意識していないブロリーに対して攻撃を食らわせても無視され、ブロリー超サイヤ人になると「伝説の超サイヤ人…」とうわごとのように繰り返し、一発も殴られることなく戦意を喪失している。仕舞いにはピッコロに頭を掴まれて引きずられた上非難されても、何も抵抗しない有様だった。「純粋なサイヤ人だからブロリーの強大さがわかるのだろう」とパラガスにフォローされてはいたが、それを考慮に入れてもあまりに情けない姿だ。ブロリーが凄いというより、ベジータが情けないという印象しか抱けない。

相変わらずの悟飯

ブロリーは会話の成り立たないアホというイメージがあったが、マッチョ化しても普通に喋っていた。会話が成り立たないのはゾンビの時だけか?2回目の時は記憶にない。ブロリーのマッチョ化には2段階あるものの、最初のマッチョの時点で既に勝負が成り立たない。スタッフを含め、ブロリーの魅力に取り憑かれた者達が「ブロリーが最強だ!」と主張するのを見る度、「いやせいぜいセルと同じくらいだろ」と思っていたが、仮にこの映画での悟空達がセルゲーム時と同じ強さなら、少なくともセルよりは強そうだ。悟空流に評せば思ったよりずっと強えじゃねえか、といったところか。つまりダーブラと同レベル。

悟飯はこの時点では悟空以上の、最低でも同等くらいの強さだったはずだが、全く活躍しない。トランクスやベジータよりも影が薄い。何故皆悟飯に辛く当たるのだろうか。一体悟飯が何をした。制作時期とアニメや原作の進行度を照らし合わせたわけではないから、まだ悟飯の実力は明らかになっていなかった頃かも知れないが、超サイヤ人になっても何の活躍もできない悟飯が不憫でならない。

キャラが薄くて活躍させづらいのなら、無理に活躍させる必要はない。ただ悟飯は強いのだという細かい描写が欲しいのだ。たとえばトランクスは攻撃を当てることさえできず、悟空の攻撃ではびくともしないが、悟飯の攻撃では少し後ずさりするとか、そういう細かい描写が一瞬でもあればそれで満足だ。その後一発でやられても構わない。ただ雑魚のようにやられるのだけはやめて欲しい。神と神でもそうだ。ビルス超サイヤ人3やベジータ相手に少しでも焦る実力ならば、悟飯の動きに一瞬でも驚くべきだった。なしてみんなで悟飯ちゃんをいじめるだ。

バトルが長い

バトルが起こるまでも長かったが、バトルになってからも長かった。最初から傷一つ付けられない程の絶望的な差があるため、勝負がまるで成り立たない。そんな勝負が長々と続くと退屈に感じる。その上1時間10分と、今までの劇場版よりも恐らく長い。長いことがかえって足枷になっている。ベジータの葛藤などを入れると長くなるのはわかるが、その長い戦いの末やることが「パワーを分け与える」といういつものパターンだから尚更「結局それかよ」という落胆に繋がった。

本当に、結局それか。それ以外のパターンはないのか?様式美だ伝統美だという言葉では逃げて欲しくない。捻れよいい加減。原作を見たまえよ。敵の倒し方には色んなバリエーションがあった。劇場版がワンパターンなのはただの怠慢だろう。この頃は超サイヤ人のマッチョ化という概念があったのだから、トランクスがマッチョ形態になってブロリーにパワーで対抗して、その隙に孫親子が二人でかめはめ波を撃ってみるとかさ、ちょっと作戦みたいなことも入れとこうよ。トランクスがマッチョになるとブロリーと区別が付かなくなるけど。

ただ殴りかかって返り討ちにあっての連続じゃ「どうせ最後はワンパターンなんだからとっとと勝負付けろや」と思えてならない。ひねた大人はこんな映画見ちゃいかんのか?子供もわかってたと思うが。「パワーをくれぇぇえー!」と他力本願なセリフを叫ぶ悟空は別に格好良くはない。

圧倒的な実力だったブロリーも、友情パワーを前に敗れ去った。もらった気が戦闘力に単純にプラスされるとは思えないが、されたのであれば3,4倍の戦闘力にはなったわけで、負けるのも無理はない。だがそんなことができるのなら、最初からやれという話だ。サイヤ人のプライドが許さないとでもいうのか。多人数でよってたかって戦っている時点で、プライドも何もない。

戦いが長くなるなら、やはりシーソーゲームの要素は必須だ。一方が終始優勢では長い意味がない。ブロリーを一旦追いつめてからマッチョ化でも良かったのではないだろうか。ブロリーの圧倒的な強さは十分過ぎる程伝わったが、十分過ぎるし長すぎた。

今回は敵の目的が「ベジータを彗星衝突に巻き込んで殺す」という捻ったものであったために、敵と出会ってすぐ戦闘にはならなかった。それだけに話がどう展開するのか読めない部分があり、伝説の超サイヤ人という要素もあって序盤は先が気になった。ブロリーとの戦いで中だるみが起きたのが残念だ。仙豆で一度回復して同じ事を繰り返す必要があったのかどうか。これはもう少し短い方がもっと楽しめただろう。