最後までひどかったドラゴンボールGT #64

64話という半端な期間で終了である。なんでなのん?ドラゴンボールは初代とZで400話やってましたよねん?なんで64話なのん?なんでなのん?せめて2年やれば良かろうに、64話で終わった。なんでなのぉ〜〜〜ん?元々予定していた期間とは思えない。だが打ち切りとも思える短さに反して、その結末は衝撃的なものだった。

シェンロン曰く、「お前達はドラゴンボールに頼りすぎだ。もうお前達には使わせない」。

原作を否定している。「ドラゴンボールがある限り大丈夫」と作者が結論を出した事を、あえて蒸し返して「いや頼るなよ!甘えるなよ!悟空は、意味はないけどとりあえず死んどけよ!」である。「剣と心を賭して戦いの人生を全うする!」という結論を出した剣心を、惨たらしく殺したアニメスタッフと同じ臭いを感じる。作者の和月氏は再三ハッピーエンドへの思いを語っていたにも拘わらず、「いや人斬りは幸せには死ねないでしょ」というスタッフの考えから、剣心も薫も無惨に死んだ。*1

ドラゴンボールもそうだ。原作としては「ドラゴンボールがある限り、これからも大丈夫さ」というスタンスであったのに、GTは「いやダメだよ〜〜〜。悟空死ねよ〜〜〜〜。」なのである。アニメと原作は別物だ。原作をどう解釈しようと、どう飛躍させようとそれは自由だ。作者の意向や作品の雰囲気をなるべく尊重して欲しいとは思うものの、それをあえて破壊しようと試みるのも、それはそれで許されるべきことだろう。原作のアニメ化なら忠実に再現して欲しいという意見もあるだろうが、ストーリーがオリジナルなのであれば、何をされても文句は言えない。

ただし当然、GTがドラゴンボールという作品の仲間であるとは認めない。原作とGTには何の関係もなく、原作の世界では、何年経とうとGTのような出来事は絶対に起こらないと考える。原作としてのドラゴンボールは、悟空とウーブが旅立ったところで終わっている。その続きはどんな形であっても存在しない。あったとしても、それは無数に存在する「ドラゴンボールのその後」の内の、可能性の一つに過ぎない。

ただアニメのドラゴンボールZに対するこだわりは全くないから、その続きであることは否定しない。ZはZで酷いのだ。セルを苦労して倒した直後に、アニメオリジナルキャラにセルをあっさり倒させるあたり、全くセンスが感じられなかった。しかもそのパイクーハンに、当時の悟空が勝ってしまうのである。ヤムチャ達がギニュー特戦隊を倒すくらいはご愛敬だが、セルはやりすぎであることがわからないのだ。セルと悟空の実力差は、ラッキーパンチで勝てるほど小さいものではなかった。そういう話を作ってしまうスタッフが続きを作ったら、当然GTのようになる。それは十分予測できたことだ。

シェンロンの僭越行為

ドラゴンボールを使うということへの考え方はともかく、「シェンロンが勝手に行動しすぎている」ということが最大の問題点だ。シェンロンに意志はあるのか?願いを叶えるための、必要最低限の知能しか持っていないのではないか?叶えられる願いならば、悪魔の願いでも叶えるのがシェンロンという存在だ。ピッコロ大魔王に何を願われようとも、たとえフリーザに不老不死を願われようとも、シェンロンはそれを叶えるだろう。*2

シェンロンは「お前達はドラゴンボールを使いすぎた」などとわかったような口など聞かない。出過ぎた真似だ。「神と神」でも何故かサイヤ人についてやたら詳しくて違和感があった。シェンロンは全知全能の存在ではない。機械っつっちゃ何だけれども、シェンロンは願いを叶える機械ではないだろうか。時として死者の肉体や服をサービスで復元したり、なかなか願い事を言われないと勝手に消えようとしたりすることもあるが、それも願いに因んでいる事だ。願いに関係ないことで、創造主であるデンデの意志を越えて、勝手な行動をするだろうか。デンデは悟空の死を望んだだろうか。デンデがシェンロンの消滅を願っただろうか。たとえばブウ編でポルンガが誰に願われるでもなく、自分で勝手に悟空の体力を回復させたら、誰だって「それは違うだろう」と思うだろう。最終回のシェンロンは、その「違うだろう」をやってしまったのである。

ドラゴンボールの続編としてはお粗末な出来だった。原作とは全く違う設定と価値観で、絶えず違和感を与えられた。たとえば「地獄の亡者は不死身である」という設定など原作にはカケラもない。「死者がもう一度死ねば無となる」というのが本来の設定だ。地獄に落とされた者だけが不死身になるのだとしたら、筋が通らないだろう。ただしこれはZから既にあった設定だ。Zの続編としてなら、特に矛盾はない。

悟空とパン以外の扱いも酷いものだった。極端なパワーインフレがないからこそ、脇役を活躍させることは十分可能だったはずだ。ところが次世代の戦士となるべきウーブは青年になっても終始役立たずで、悟空以外のサイヤ人は「ただ出てきて、ただやられる」という役割が最後まで続いた。ピッコロは殺され、ブウは消滅した。挙げ句の果てには悟空とシェンロンまで消え去った。設定的に続編を出す可能性をなくしたのは潔いが、一方でドラゴンボールの世界を完全に滅ぼされたような感覚にも襲われる。

GTという作品は、「鳥山御大なら絶対やらないだろう」という要素が満載の作品だった*3。良く言えば、鳥山メソッドを使うことなく、独自の解釈でドラゴンボールという物語を描いたとも言える。編集部が無理矢理続きを描かせていたとしても、GTのような物語は絶対に生まれなかった。「鳥山御大以外の手でドラゴンボールを作るとこうなるよ」という事を示してくれたという点では、大きな意義がある。ドラゴンボールの続編など期待してはならないということだ。

*1:星霜編は見ていないので想像

*2:不老不死が実現できるかどうかは微妙なところだが

*3:パンの涙で悟空が超サイヤ人4に覚醒なんて、鳥山御大ならナイフを突きつけられても「そんな陳腐な話描きたくない!」と全力で拒んでいたと思う。