今週もひどいドラゴンボールZ 神と神

映画公開から時間が経てば経つほどジャンプがどんどんネタバレするので、超サイヤ人ゴッドという恥ずかしい形態が出てくることは見る前から知っていた。さらにベジータ達のサイヤパワー的なものを受け取ってゴッドに変身するという筋書きまで、ジャンプが親切にネタバレして下すった。

これまでの劇場版から考えるに、絶体絶命のピンチに陥った時、ベジータ達が悟空にエネルギーを分け与えて超サイヤ人ゴッドに覚醒し、ビルスを倒してめでたしめでたし、という展開になるのだろうと思っていた。大筋はその通りだが、実際は思っていた以上に雑なストーリー展開だった。全体的にギャグテイストだったことからも、雑なストーリーというのは狙ってやったものなのだろうが、それにしても雑さは気にかかる。

破壊神の意味

破壊神が何故惑星を破壊するのか?大人の自分は「ほったらかしにすると宇宙のパワーバランスがどうのこうので、破壊がなければ新たな星も誕生しないから」みたいな理由が欲しかったが、そういった説明はなかった。「創造の前に破壊あり」みたいなセリフがその説明に当たるのだろうか。その場合、では何故ビルスが地球の破壊を留まったのか、という点が説明できない。宇宙のシステムとして破壊が必要なものなら、地球の代わりに別の惑星が破壊されることになる、というだけの話ではないのか。

ジャンプでのインタビューによればもっと暗いストーリーだったというから、本来は破壊神の気まぐれで破壊したり破壊されなかったり、というようないい加減なシステムではなかったのかも知れない。ストーリーが単純化したことにより「破壊神って結局何なの?」という疑問が拭えなかった。破壊神という割に話せばわかる感じがして、圧倒的強さにもかかわらず、ギャグ展開とも相まって緊張感に欠けた。

悟空と接触

悟空が界王星で修行する意味が全くわからない。ビルスと先に接触させるための苦肉の策のように感じられる。超サイヤ人ゴッドなる設定は界王神から伝えられるのかと思いきや、「破壊神が夢で見た」という恐ろしく荒い展開だった。なかなか強引ではないか。だが別に問題はない。序盤でいきなりゴッドという言葉が明らかになるとは思わなかった。悟空が覚醒した姿を見て、破壊神なり界王神なりが説明するのかと思った。

ピラフ

ドラゴンボールを集めて若返っていた。GTの否定か。今のドラゴンボールは願いを2つ叶えられるはずで、若返るだけで終わっている理由がわからない。デンデが従来の1つに戻したということなのか。この劇場版は「人々がイメージするドラゴンボールの設定」を再現しているという印象を受ける。ドラゴンボールの設定はゴチャゴチャと変わってはいるが、一般層はそこまで設定を把握していない。願いは2つ叶えてもらえるとか悟飯が悟空より強いとか、そういう認知されていない設定は破棄して、わかりやすい形に再構成しているのだろう。

ビルスも本来はフリーザを倒した者に興味を持つより、魔人ブウを倒した者に興味を持つ方が理に適っているように思う。「魔人ブウを倒すような者なら自分も少しは楽しめるかも知れない」というようなことを言えば、「今度の敵はそんなに強いのか」と思えたかも知れない。今更フリーザを引き合いに出されても違和感を覚えるが、やはりブウよりフリーザの方が有名だからだろう。その辺に目くじらを立てても仕方ない。

犬のシュウが「とっくに寿命が尽きていた」と語っているが、これは誤りだ。ドラゴンボール世界に住む喋る動物の寿命は、特に短く設定されていない。国王の犬だって長期に渡って世界を治めているし、ウーロンやプーアルも若いままだ。シュウだけが短命と考えるのは明らかに誤り。ウーロンやプーアルを見る限りでは、むしろ動物族の方が長寿なのではないかという気さえする。

ピラフのパートが妙に長く感じた。血みどろの戦いを期待していた身としては、この辺は退屈だった。そしてピラフが何かやらかしてビルスの機嫌を損ねるのかと思いきや、実際はほとんど関係がなかった。中盤の話は「如何にビルスの機嫌を損ねずにやり過ごすか」というところだったと思うが、ビルスにそれほどわがままな印象は受けられず、あまりハラハラはできなかった。

見た目が若いとはいえ、マイは熟女である。トランクスが多少なりともマイを気に入る展開はどうなのだろうか。別に自分はトランクスが誰に惚れようが知ったことではないが、トランクスファンはあまりいい気分はしないはずだ。

キャラ崩壊

ピッコロやベジータのキャラクターが崩壊した部分は見ていられなかった。恋愛について無頓着なピッコロに「不純」などという概念があるわけがない。俗世に揉まれたならともかく、天界に暮らすピッコロにそのような知識が入り込む余地はない。

ベジータベジータで、原作では如何にビルスの機嫌を直すためといえど、踊ることなどあり得なかっただろう。もっともキャラの崩壊は原作のブウ編から始まっている。GTではフリーザやセルがすっかりギャグキャラ化し、映画やゲームなどでも様々なキャラがギャグキャラとして扱われていたのだろう。ネコマジンではベジータもその場凌ぎに嘘をつくキャラクターに成り果てた。ドラゴンボール終了から20年近い時が経てば、それぞれのキャラクター観も変わってくる。これも仕方のないことか。

ビルス逆上

ビルスがブウにプリンを独り占めされ逆上、という展開は非常に下らない。下らないが、この作品に緊張感がないのは狙ってのものだろうから、問題はないだろう。笑いはしないが、悪くはなかった。ビルスのくだらなさは最初から表現されている。世界支配を目論む悪の総帥が、ドラゴンボールを使って身長を伸ばそうとするような漫画である。作品として間違っているとは思わない。

そこからのバトルは一方的なものだった。見せ場はベジータに与えられ、悟飯は全くいいところなし。ブウ編から数年程度ならまだ悟飯が最強だと思うが、悟飯の強さについて言及する者は誰一人としていなかった。超サイヤ人の究極形態ともいうべき「3」に辿り着いた悟空でさえ、「あそこまで極められるものか」と驚嘆したほどの強さだ。良い勝負とまではいかなくとも、ほんの少しでもビルスが少し焦るか、面白そうに戦うかくらいはしてもらいたかった。

バトル面における悟飯の個性は強い事だけだ。それ以外何の個性もない。だから強さを発揮しなければ存在する意味さえないのに、今回もやはり雑な扱いだった。雑というだけでなく、酔っぱらって身重の妻を負傷させるという失態まで演じている。シャレになるドジとシャレにならないドジがあるとすれば、悟飯の今回の醜態はシャレにならない方のやつだ。Z時代にも悟飯が極めてからの映画が作られているはずだが、「悟空がやらねば誰がやる」というサブタイトルにされる有様だった。

これは勝手な推測だが、鳥山御大自体、「悟飯が強くなった」ということを忘れていやしないだろうか。普通漫画家に対して「あの設定忘れてるんじゃないか?」とは早々思わないものの、鳥山御大に関しては別だ。恐らくほとんどの事を忘れていると思っている。ジャンプに掲載された映画に関するインタビューでも、かなりいい加減なことを言っていた。「最終回ではベジータにヒゲを生やしちゃった」と仰っているが、ヒゲなど生えていない。ヒゲが生えているのはGTの序盤のみで、確かに御大はGTのメインキャラをデザインしてはいるが、漫画としては描いていない。それさえも忘却の彼方なのだから、悟飯のことなどすっかり忘れていても不思議ではない。

超サイヤ人ゴッドのデザインを「シンプルにしよう」と考えられたようだが、それは悟飯の究極化がそうだったのではないか。新たな超サイヤ人を悟飯と被る方向にしたのは、忘れていたからではないかと思いたくなる。

悟空を超えたとか何とか

ブルマを殴られたベジータが逆上し、見た目ではわからないが、「一瞬悟空を超えた」らしい。怒りによってパワーアップするのは悟飯の特権だったはずが、それさえも奪われてしまったようだ。悟空が怒ってパワーアップしたのは超サイヤ人化までで、ベジータも怒ることはあっても、少なくともセル戦ではパワーアップといえるほどの顕著な変化は感じられなかった。既にあの時家族への愛情には目覚めている。ゆえにブルマが殴られた程度のことでパワーアップすることには違和感があった。ドラゴンボールは「怒りでパワーアップする」という展開は実のところ、それほどない。安易でもあるし、怒りでパワーアップという展開は慎重に扱って欲しい。

超サイヤ人ゴッド化への経緯

シェンロンを呼んでやり方を聞く→実際に試してみる(ビルス待機)→うまくいかない→ビルス達がアドバイス→もう1回試す→成功

ギャグが強めとはいえ、さすがにこれはグダグダ過ぎる。「5人の正義のサイヤ人のパワーを集める」というのも、如何にもとってつけたような設定だ。何の必然性も感じられない。もっとも超サイヤ人化の「おだやかな心を持ちながら激しい怒りによって…」も今となっては何だったんだこの設定は、という感じだが。ゴッドというからには破壊神と何らかの関係があるのかと思いきや、特にそういう事もなさそうだった。

シェンロンが超サイヤ人ゴッドのことを知っている意味がわからない。ただ最長老が超サイヤ人の言葉を知っていたから、デンデやカタッツの子によって作られたシェンロンがサイヤ人の事を知っていても不自然ではないのか。作った者が知らないであろう事をシェンロンが知っているというのは非常に違和感を覚えるが、あまり深く考えない方が良さそうだ。

ゴッド化以降

ゴッド化してもビルスの強さには遠く及ばず、結局ビルスが悟空の将来性だか何だかに期待して地球の破壊を思いとどまる、というところで終わった。パワーアップしても歯が立たず、敵を倒さないまま終わるだけでも異常だが、その上敵よりも強い者がいくらでもいることを匂わせるという展開には呆気にとられた。これはどう評価してよいのかわからない。悟空達のいる宇宙は10数個ある内の1つに過ぎず、ビルスもその宇宙の神に過ぎないという。ラッキーマンしか思い浮かばなかった。ドラゴンボールの最後の敵は全とっかえマンか。

一体どういうつもりなのだろうか。御大は「もっと続きがあるんじゃないかと思って欲しい」みたいなコメントをされていたようだが、自分はもやもやしたものしか残らなかった。確かにときめいたし、わくわくもした。しかしそれはあくまでも続きがあってこそ意味があるものだ。世界を広げるだけ広げて「いや続きなんかないよ(笑)」ではダメだろう。界王が「まだ悪の根が断たれたわけではないがな…」と言いながら、フリーザが出ることなく終わってしまうようなものだ。

今回は破壊神の気まぐれで戦いが起こり、気まぐれで戦いが終わった。悟空達が勝ったわけでもなく、どうにもしこりが残る。今までとは全く違った展開と決着は新鮮ではあったものの、物足りないのは確かだ。破壊神にあまり邪悪さが感じられず、バトルに緊張感もなかった。本当に、ただ悟空達が破壊神に稽古をつけてもらったという感じだった。次作以降への布石ならともかく、この作品だけで終わってしまうのであれば、あまり高い評価は付けられない。