「爆笑」が一人には使えないという説の根拠は「辞書」しかないのだろうか

この記事は攻撃的な論調だったため、2014年12月27日に大部分が変更・修正されました。

言葉の誤用について「辞書にはこうあるから、それ以外の使い方は誤用だ」と高圧的に主張する人達がいる。たとえば「爆笑」だ。「辞書には『大勢が大声でどっと笑うこと』とあるから、一人で爆笑したは誤りだ」と主張する人をネットではよく見かける。「一人で爆笑はできないんです!」と得意気に解説しているケースも多い。

彼等の根拠は辞書のみで、それ以外の根拠を聞いたことがない。辞書をまるで聖書のように絶対視しているが、果たして辞書にそのような役割はあるのだろうか。辞書は言葉の定義集ではなく、変化し続ける言葉の一瞬の意味を、辞書の編纂者達が捉えたものに過ぎない。辞書そのものにさえ、その事がきちんと書かれている。

辞書の編集という仕事には、完了ということがない。その時その時の一応の仕上げがあるだけである。言葉というものがつねに変化・発展の歩みを続けてやむのないものであるために、それをとらえて記録する仕事は、いつになっても、これで完了したということにはなり得ないのである。
(新選 国語辞典 第七版)

言葉の発展ということは、新しい語が生まれるという側面だけのものではない。語の意味・用法の発展・変化という事実を見逃すわけにはいかない。
(新選 国語辞典 第七版)

辞書の編集は「言葉の変化・発展の歩みをとらえて記録する仕事」なのであって、決して「言葉の意味を確定する仕事」ではないということだ。辞書が最初にあるのではなく、使われる言葉の次に辞書がある。「辞書にあるから」という理由で、言葉の正否を語るのはやめなければならない。辞書は大いに参考にすべきである。だが盲信するものではない。爆笑の意味を論ずるなら、自分の言葉で語るか、さもなくば爆笑の起源か古い用例を突き止めてから語るべきだ。「辞書にそう書いてる」だけでは説得力が足りない。

私は普段から辞書をよく参考にしている。依存症と言っても良いかも知れない。それだけ辞書が大好きでも、爆笑が大勢限定とは到底思えないのだ。上に「爆」が付く人間の行動に関する言葉は、デジタル大泉辞に収録されている中では「爆死」「爆睡」「爆食」「爆笑」などがある。「爆笑」を除いた言葉に「大勢」という意味が含まれるものがあるだろうか。一人でも爆死はできるし、爆睡や爆食*1は「大勢で眠る/食べること」ではない。ところが爆笑だけは、大勢限定と言われているのである。ここにどのような根拠があるのか。「辞書に書いているから」としか言えないのではないだろうか。だが辞書には何の根拠も書かれていない。

「爆笑」は100年以上前から使われている。その当時は、大勢が一斉に笑うさまを「爆笑」だと表現した者が多かったのかも知れない。大勢が笑うことを爆発に見立てた発想は素晴らしく、一人で笑うことに「爆」の字を充てるのは大袈裟という考え方もあるだろう。しかし当時ですら、一人に対して「爆笑」を使う作家もいた。「爆」の字に大勢という意味がないのだから無理もない。爆笑という言葉から集団が笑う光景を想像する者もいれば、一人が大笑いする光景を想像する者もいる。どちらも誤りではないはずだ。

爆笑と似た意味の言葉に「哄堂」がある。聞き慣れない言葉で、いつ誰が使っていたのかは知らないが*2、意味は「満座のものがどっと笑うこと」だという。「堂」の字があるから、この言葉が大勢限定であることには説得力があり、「一人で哄堂はできない」という説明に「辞書に載っているから」と捕捉する必要はない。

つまるところ、爆笑の大勢という限定には説得力がないのである。辞書に載っているというくらいの根拠しかない。意味が変化したというより、元々そのような限定があったかどうかさえ疑わしい。こればかりは、当時の編纂者が何故大勢としたのかわからなければ何とも言えないが、そこまで調べる気力もなければ方法もわからない。

修正前の記事


普段辞書を基準にしている人間が言うことではないが、言葉の誤用について「辞書にはこうあるんだ!だから誤用なんだ!」と声高に叫ぶ連中がいる。

「爆笑」は辞書には「大勢が大声でどっと笑うこと」とある。だから「一人部屋で爆笑したは誤りだ!!!!」と辞書信者は主張する。果たしてそうだろうか。では聞くが、「辞書にそうだと書いたのは誰だ」。「爆 笑 が 大 勢 だ と 決 め た の は 誰 だ」。どうせ考えたことなどないのだろう。ぼくも考えたことはない。

上に「爆」とつく言葉は、実は少ない。人間の行動に使えるのは「爆発」や、せいぜい俗語の「爆睡」くらいのものである。「感情が爆発」は大勢である必要はないし、「爆睡」も当然「大勢」という意味はない。個人にも複数にも使える言葉である。

では何故「爆笑」は一人には使ってはいけないのか?辞書信者は「辞書にそう書いてゆからぁ…辞書のおじさん達がぁ〜言ってゅから〜ひぐっひぐっ…ぐすん…い、いぢめないでよ…ひくっひくっ」とでも言うのだろうか。涙をお拭きよ。学者様の言う事は絶対か?彼等が言葉を作っているのか?

「爆笑」という言葉は、如何にも俗語という印象を受ける。歴史を感じさせない。少なくとも江戸以前には存在さえしない言葉であろうと憶測したくなる。「爆発」という言葉もあまり古い感じを受けないのだが、よくわからないのでその辺は各々調べて欲しい。ぼくはどうやってしらべていいのかわかりません。

言葉の使い方は人により千差万別である。特に新しい言葉はまだ方向性が定まっていない、不確かなものだ。たとえ最初に作った者が「大勢が笑うさま」という意味のつもりで作ったとしても、言葉に「大勢」というニュアンスが感じられなければ、一人に対して使う人が出てきても仕方ないだろう。「爆」に「大勢」「多く」といった意味などないのだから。

言葉は学者が作るのではない。使う者が作るのだ。学者は「どういう意味で使われているか」を捉えているに過ぎない。国語学者や辞書の編纂者が「こうだ」と言ったからといって、必ずしも「こう」ではないのが言葉というものだ。

辞書を引くのは良いことである。だが「辞書に書いてたからぁ」という理由で人の言葉を批判するのは、如何にも知性のない行為に思えてならない。かくいう自分も、言葉の使い方に迷った時は辞書を参考にしている。辞書にない意味ではなるべく使わない。それでも「爆笑」が一人に使えない言葉だとは、全く思わない。「辞書に書いてゅかぁ」という理由は、理由にならないからである。

だが思いの外、「辞書に書いてははひはふへぁ」というわけのわからない理由を持ち出す者が多い。辞書を言葉の定義集だと思っているのかも知れないが、それは大きな間違いだ。

君達の大好きな辞書から引用しよう。

辞書の編集という仕事には、完了ということがない。その時その時の一応の仕上げがあるだけである。言葉というものがつねに変化・発展の歩みを続けてやむのないものであるために、それをとらえて記録する仕事は、いつになっても、これで完了したということにはなり得ないのである。
(新選 国語辞典 第七版)

言葉の発展ということは、新しい語が生まれるという側面だけのものではない。語の意味・用法の発展・変化という事実を見逃すわけにはいかない。
(新選 国語辞典 第七版)

おわかりいただけただろうか。辞書の編集は「言葉の変化・発展の歩みをとらえて記録する仕事」なのである。決して「言葉の意味を確定する仕事」ではない。

辞書が最初にあるのではない。使われる言葉の次に辞書がある。「辞書にあるから」という理由で、言葉の正否を語るのはやめなければならない。辞書は大いに参考にすべきである。だが盲信するものではない。「爆笑」の意味を論ずるなら、辞書などではなく自分の言葉で語るか、さなくば「爆笑」の起源か古い用例を突き止めてから語るべきだ。辞書だけでは、浅い。

*1:こんな言葉初めて聞いたし、爆睡も個人的には使わない言葉ではある。

*2:100年以上前の著書も掲載されている「青空文庫」を検索しても一件も出てこなかった。