爆笑の用例

人の使っている言葉を誤用だと、何故かしたり顔で指摘している者をよく見かける。確固たる理屈・根拠があって指摘しているならともかく、こと「爆笑」という言葉に関しては、「辞書に書いてゆ」という以上の理由を提示している者を見たことがない。揃いも揃って「一人では爆笑できないのです」「爆笑とは大勢でどっと笑うことなのです」「と辞書に書いています」と、まるで辞書に操られたロボットか、あるいは親や教師に教わったことをそのまま口から垂れ流す幼児のように、同じ事ばかり言っている。
この手の人々はろくな検証もせず、「『最近』は言葉が乱れている」という前提で話すことが多いように思うが、「爆笑」という言葉は80年前から「誤用」されている。

他の二人が声をそろえて爆笑する
(「寺田寅彦随筆集 第五巻」 1948(昭和23)年11月20日第1刷発行)

「二人で爆笑」。二人が大勢か?少なくとも一人ではない。

「大笑い」「哄笑」「爆笑」などという新語もあります。
(「人生読本3」春陽堂書店 1954(昭和29)年6月25日発行)

「大笑い」や「哄笑」が新語だとは思わなかった。1954年に作家の一人が「爆笑」を新語だと思っている点が興味深い。明治にはなかったのだろうか。善良で暇な賢い人、調べて下さい。

わーツとおこる爆笑の中で、私だけは生真面目にポカンとしてゐた。
(「みの 美しいものになら」四季社 1954(昭和29)年3月30日初版発行)

誤用派が喜びそうな用例。一応言っておくが、「大勢で笑うという意味が間違いだ」とは全く言っていない。

私は、折竹の爆笑を夢の間のように聴きながら、しばしは茫然たる思い。
(「人外魔境」 1978(昭和53)年6月10日発行)

折竹という人物が、一人で爆笑している。

 そこで三人の間にどっと爆笑が起った。
(「新青年」 1931(昭和6)年12月号)

1954年に新語だと言われているが、その23年前に既に使われている。しかも三人という微妙な人数だ。まあ一人ではないから、誤用派も別にこれを誤用とは言うまい。

「父(ちゃん)!」庄太郎が、にやにやして、「いいものが手に入ったぜ。さあ、これからおいらの家は、金持ちになる。おいらなんか、お絹(かいこ)ぐるみで、あっはっはっは――。」
 大の字に引っくり返って、爆笑(わら)った。
(一人三人全集I 1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」) 1925年頃?

庄太郎が一人で爆笑している。ただ「爆笑った」と書いて「わらった」と読ませているから、爆笑とは別なのかも知れない。こんな使い方は初めて見た。いつ発表された作品なのかよくわからないが、少なくとも1925年〜1935年頃である。

 そして彼は陰欝に爆笑した。
(「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房 」著者1943年没)

やはり一人で爆笑している。そんなことより「陰鬱に爆笑」がどういう笑い方なのか想像できない。クックック…ククククククク!クークククク!気持ち悪いわ。

「あッはッはッ」と人垣のうしろの方から、無遠慮(ぶえんりょ)な爆笑の声がひびいた。フョードル参謀の声で。
(「ぷろふいる」1934(昭和9)年2月号〜9月号)

フョードル参謀が一人で爆笑している。これも80年前。昭和初期からあったとなると、明治時代に存在していても不思議ではない。

「昔の作家が使っていたから正しい」と主張しているわけではない。「50年以上前から、古いものでは80年も前から多くの作家が一人に対して爆笑という言葉を使っていた」ことを証明したに過ぎない。もちろん、大勢の意味で爆笑を使っている作家の方がずっと多いことは言うまでもない。

爆発という言葉を聞くと、大抵の人は大規模な爆発を想像するだろう。爆竹に点火して起こる現象も紛れもなく爆発であろうが、爆竹の爆発はまず想像されないはずだ。同様に「爆笑」も、その場にいる数十人、数百人が一斉に笑うような光景が連想されても不思議ではない。しかし小さくとも爆発は爆発であり、どういう状態に「爆笑」という言葉を使うかは、各々の言語感覚に委ねられる。正しいか間違いかの話ではない。少なくとも昭和初期から一人に使ってもいい、と判断した作家が何人もいたことは確かで、自分も彼等同様、「一人で爆笑した」がおかしいことだとは思わない。

さて、誤用だ誤用だと言っている人達は、このくらいのことまで考えて、「一人では爆笑できないよぉープスプスプス」と仰っているのだろうか。どうも、「間違いって誰かがゆってたから」という浅い理由しかないのではないかと邪推してしまう。言葉は非常に繊細なものだ。自分が完璧な言葉を使っているわけでもあるまいに(そもそも完璧な言葉などあり得ない)、人に対してやけに偉そうな口調で誤用だと指摘する行為は下品である。繰り返すが、理屈の伴う指摘ならばまだ良い。「辞書にのっへは」という理由だけなら、黙っておくのが自分のためでもあり、人のためでもある。