今週も叩かずにはいられないドラゴンボール超 #131

ドラゴンボールらしからぬ、仲間だの信頼だのを言い合うストーリーに残念な気持ちになる。ジレンがとうとう「これが信頼……!」とか言いながら負けた。わかってたけどね。安いよね〜〜〜〜……。いや、もやしがね。ドラゴンボールちゃうもんこれ。超えてないよ。だからドラゴンボール超ではない。ドラゴンボール別、ドラゴンボール他が正しいタイトル。ドラゴンボールではない何かとしては、王道の茶番でいいんじゃないすか。ドラゴンボールでされても、うん、そうだね、で終わりますけんど。

勝ち残った17号が願いを叶えてもらう事になる。え、そうだっけ?MVPじゃなかったっけ?これは記憶力の問題であって作品とは関係ない。悟空でもフリーザでもジレンでもなく、残ったのが17号というあたりは、若干ひねくれた鳥山臭は感じる。
そして17号が願ったのは消えた宇宙を戻す事だった。視聴者が100人いたら100人が「そうなるよな」と一度は思った事をストレートにやるのな。それやった後で全王が「ダメ〜〜!大会で決まった事なのねーん」ってもう一回戻った宇宙を消せばよかったのにな。
やる前からわかってた事じゃん。負けたら宇宙消滅で、勝ったら願い事を叶える。願い事を「消えた宇宙戻してくらさ〜い」にすれば差し引き0じゃん。やる前からわかってた事をそのままなぞるのはすごいな。ほたら宇宙消すも願い事叶えるもいりませんやん。昔のドラゴンボールはせやったで。賞金があるとはいえ、基本的には大会では名誉のために戦っていた。大会を開いて宇宙最強を決める。それじゃダメだったんかい?

私生活のちょっとした望みと7つの宇宙を天秤にかけて、前者を選ぶ馬鹿がいるか?よほどの悪人でも遠慮するんじゃない?17号が元の願いを蹴って宇宙を選んだのは感動的だというような方向に持って行こうとしているが。たとえば17号と18号が人造人間に改造された後遺症で、長くは生きられない事がわかった。これは地球のドラゴンボールでは治せないし、子供も長生きできないかも知れない。それでも宇宙の再生を選ぶ。これならわかる。
だが家族旅行を蹴って宇宙再生って、別にそれ、普通やん……。18号が「家族旅行は良いの?」って聞くのが冗談ならいいぞ。「宇宙と天秤にかけられるわけないだろ」と17号が返して「そりゃそうだけどさ」と18号が返す。これならわかる。違うの。18号も17号も真剣なの。怖い。
そしてとってつけたように「実は全王も優勝者が宇宙の復活を願う事を望んでいて、それ以外の願いなら宇宙全てを消滅させていた」とか言い出した。何だそれ。それこそ忖度だ。全王の気に入る答えを考えないといけないわけだろ。全王は人間に対し信頼と厳しさを見せ、人間はその信頼に答えた。この大会はどっちも持ち上げるための出来レースだったわけだ。今まで全王は善悪のない無邪気な創造者*1だったのが、今回で吹き飛んだ。大神官が勝手に言っているだけだと思いたい。
大会する意味なんかなかっただろ、という疑問に対しては、全体的な人間レベルを上げるためには必要だったという理屈が成り立つ。宇宙消滅という条件のないただの大会なら、本当の意味では真剣にならなかった。だから本当はどこの宇宙も消滅させる気はなかったけれども、命がけで戦って欲しかったと。だがどう理屈をこねようと茶番に感じる。

フリーザがすっかり仲間になったところでアニメが終わった。映画にはサイヤ人が出てくるという。フリーザも掘り下げるとかで、過去の遺産の活用がエグい。サイヤ人が出て来るというところで不安になるのは、また新しいサイヤ人のバージョンが出て来るのではないかというものだ。そうだとしても敵限定の形態で、悟空はさすがに身勝手にしてもらいたい。
大会に出場しなかった宇宙は掘り下げないのか。いつか再開する時のための話の種として取っておくのか。それで再開できるならいいが、しないまま終わったら悲惨だ。消化不良は良くない。この作品が面白いとは全く思わなかったが、こんな半端な状態で終わったのでは、「神と神」で「実は宇宙は12個ある」と言ったまま数年放置されたのと同じ状態になる。そういえば「神と神」の評価は、12個の宇宙が実際に話に関わって来てから最終的に下すとかつて述べた。まあ、ダメだった。「12個ある」とか「ビルスよりも強い者達が大勢いる」と初めて聞いた時の高揚感はどこかへ行ってしまった。確かに宇宙は12個あり、ビルスより強い者達もいた。だが破壊神や天使は戦いにはほとんど関わらず、直接戦った中で破壊神以上なのはせいぜいジレンくらいだった。話の中身も落胆の連続だった。映画には期待する。「超」という作品の意義は、パワーバランスや設定を徹底的に破壊した事だ。「復活のF」で感じた矛盾への絶望も、次の映画ではかなり緩和されるだろう。これ以上失望できないというくらいに破壊されている。

ここからは、上記の感想を書いてから数か月後に書く。映画に登場するサイヤ人ブロリーだと知って愕然とした。ブロリーという事だけ知った時は、「いやフリーザと違って知名度も人望もないんだから、誰も蘇らせないだろ?死んでなかった事にでもする気か?」と思ったが、なかった事にするのは死んだ事ではなく、ブロリーの存在そのものだった。Zの劇場版での出来事は一切破棄し、新しいキャラクターとして出て来るようだ。これが理不尽とかおかしいとかは言わない。元々劇場版はパラレルワールドであり、劇場版同士では話の繋がりはあっても、原作やアニメには影響を与えない。だからブロリーという存在が「超」に引き継がれていないのは当然だと言える。*2

問題は劇場版のキャラクターを今更再登場させる事だ。使い回し、焼き回し、二番煎じだ。新しいものを生み出していない。生みだした新しいものがマッチョのグレイというのもどうかと思うが、挑戦するだけいい。そもそも超の本編において、既にケールなるブロリーのまがいものが登場している。「なんかブロリーみたいな奴出しません?」「いいねそれ」とアニメの打ち合わせで決めた。その数か月後に「映画でブロリー出しません?」「いいねそれ」である。誰が提案して誰が了承したのか知らないが、提案はいい。了承しないで欲しい。「ブロリー出しません?」という提案に対し、「いや、もう出したじゃない、似た奴。」という反論が出て来なかったか、そういう反論がねじ伏せられてしまう事にがっかりする。予告編の「誰も知らない新たなサイヤ人」というフレーズは白々しい。思いついた人は時折思い出して赤面して欲しい。思いっ切りうそだし。知ってるサイヤ人出してますやん。
「神と神」で「宇宙は12個あるし、今回出て来たビルスよりもっと強い奴らがたくさんいる」事がわかった。だが次の作品にはフリーザが出て来た。12個の宇宙だのビルスより強い奴だのが実際に登場したのは数年後だった。そして超においては、8つの宇宙による武道大会が開かれ、残り4つの宇宙は人間レベルが高いとして免除された。その4つの宇宙との話があるのかと思えば、今度はブロリーである。どうも話の順序に納得がいかない。絶えず話の種を残しておいて、それ以外で良さそうなものがあればそっちを先にやるという節操のなさを感じる。そんな寄り道をする時間的な余裕があるのだろうか。もしや今後もそれなりの人気が続く限り、アニメと映画をずっとやっていこうというつもりなのか。そういうつもりで思わせぶりな設定を大量に量産しておきながら、ある段階で続きが出なくなる作品というのは、尻すぼみの上悲しさが残る。そろそろ綺麗に終わって欲しい。
「文句ばかり言ってるからさぞドラゴンボール超がお嫌いなんでしょうね、当然映画は見に行かないんですよね?」。見に行きます^^

*1:かどうかはわからない

*2:もっとも劇場版のガーリックJrはアニメに登場し、初対面扱いではなかった