今週も不安なドラゴンボール超 #18

ウイスの帰宅を察知するベジータ。予言魚が「神の気が感じられるようになったか」と発言。つまりウイスも神であることが明らかになり、さらに「神にならなくても神の気が感じられる」ということがわかった。ど、どないなの?じゃゴッドって何なの?ゴッドにならなくても神にならなくてもいいなら、神の気ってなに?いや、やめよう。喧嘩だから宇宙が消滅しなくなる物語だし。

寝ているビルスを起こさずシーツを交換するという修行は、ギャグタッチでありながらその過酷さがわかる素晴らしいアイデアだと思ったが、ただの家事手伝いとのことだった。家事手伝いとは言いながらも、修行の効果はあるのだろう。

重りをつけて歩くというのは、亀仙流と全く同じ。重り付けてたら、如何にも強くなれる気がするもんな。筋肉を痛めつけるだけのような気もするが、強さに上限がない連中の場合は、破壊された筋肉が常に毎回それ以上の強さで修復されるのだろう。それなら楽しいに決まっている。

重りを付けて動くこととは何の関連もなく、最後はビルスの寝返り攻撃を浴びて修行は終わりらしい。「手加減なしの攻撃」を浴びたら問答無用で死亡だと思うが、それはビルスとの実力差をスタッフが考えてないのか、「手加減なしの攻撃を生身で受けても大丈夫なほど既に強くなっている」のかどっちだ?ベジータが神の気を感じられるのはゴッドの領域に入っているからということなら、後者か。

とすると、ベジータは5人からサイヤパワー(って何?)を貰わずとも、自力でゴッドになったってことか?結局ただ強くなれば神の気も感じられるし、神の領域に入れるってことなの?それともビルスの気を浴び続けた事が神になれた要因なのか。結局強くなればいいだけなら、やはりゴリーザも神の気ということになる。ただゴリーザはビルスモドキに力を与えられたという話に変わる可能性がないとはいえない。

後半のシーンは、映画からそのまま引用してきたんじゃないかっていうくらいクリソツだった。また使い回しがちょこちょこ挟まれるようだ。いっそ本当にそのまま使ったらどうか。映画をそのまま使えば、6,7話後には未知の新シリーズになる。もっともビルスモドキが既に出てきている以上、話の内容はそれなりに変化しそうではある。

たとえばビルスモドキが別の宇宙の神で、ゴリーザがその尖兵として利用されているとかいう展開なら、ウイスが悟空達に味方するのは全然問題ない。映画ではややえこひいきに感じられた。